島田清次郎(1899―1930)
2012 / 06 / 24 ( Sun )
作家・島田清次郎(1899―1930)

 大正時代、一時期異常な人気のあった小説家である。石川県美川町生まれ。

 略歴を紹介する。
 彼が生まれて1年後、父が死亡し生家は没落する。祖父が金沢で遊郭を営んでいたので、金沢へ移住し祖父の世話になる。子供の頃から旺盛な読書欲を発揮し始める。
 小中学校は、祖父の家から通っていたが、1912年(大正元年)祖父が米相場で大損失を出し遊郭が経営不振に陥る。清次郎は、それ以上中学(旧制金沢二中)に通えなくなる。

 一時、東京の実業家の庇護を得て、東京の明治学院に通う。が彼のわがままな性格からその実業家と衝突し、叔父の元に身を寄せた。叔父の家から通った金沢商業学校も、卒業間近の時期に校内弁論大会で校長弾劾演説を行い停学処分を受け中退する。

 その後の放浪生活のなかから小説『地を超ゆる』(1917年(大正6年))を執筆、歌人で評論家の暁烏敏(あけがらすはや)の紹介で『中外日報』に公表される。

 1918年(大正7年)夏、世話する者がいて、彼は月5円で七尾にあった鹿島郡役所の雇用に採用され七尾に一時期住む。住んだ家は、木町にあった彼と同じ島田姓の家だったという。

 七尾での島田清次郎については、(七尾市出身の直木賞作家の)杉森久英が『天才と狂人の間で』の中で、約3頁にわたり描いている。
(興味のある方は、そちらを参考に読んでほしい)


 その七尾での吏員をしていた頃、清次郎は『中外日報』の社主・真渓涙骨から月給50円出すから自社の記者にならないかと誘いを受ける。真渓は、自紙に時々寄稿される『地を超ゆる』を読んで清次郎の才能にすっかり感服したのだった。

 清次郎は、鹿島郡役所を勤めはじめてまだ数か月ばかりだったが、10倍の給料に否もなく、役所を辞めて京都へ出る。時に19歳。

 がここも彼の傲岸な態度が嫌われ、生田長江(いくたちょうこう)への紹介状を携え、上京する。1918年(大正7年)『地上』第一部を脱稿、翌年生田長江の推挙で新潮社から刊行された。

 内容は天才肌の少年(主人公)が社会に反抗したり恋愛する精神遍歴の姿を描いたもので、理想主義的な青年の共感を得て、大ベストセラーとなる。一時は「島清」という略称でも呼ばれるほど有名になった。

 しかし続刊された第二部、第三部では概念的になり、未完に終わる。

 1922年(大正11年)欧米を外遊、米国のクーリッジ大統領、英国ではH.G.ウェルズとも面会。
欧州旅行後は、文壇の中で傲岸不遜な態度に出て他の作家に嫌われたり、裁判沙汰になるような女性問題なども起こし、人気は急落する。

 精神的にも安定性を欠き、奇矯な言動が目だつようになる。
 ある日、巣鴨地蔵尊の近くで警察署員に職務筆門された時、暴言などをはいて巣鴨署に拘引となる。精神鑑定の結果、統合失調症と鑑定され、巣鴨の精神病院に収容される。
 そのまま不遇のうちに精神科病院で没した(1930年4月29日(昭和5年))。
 享年31歳であった。

 彼の著作は、『地上』、『地を超ゆる』の他に短編集『大望』(1920)、評論集『勝利を前にして』(1922)がある。

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