正午頃、一本杉通りに平国祭の御幸
2010 / 03 / 22 ( Mon )
 平国祭とは、能登一ノ宮として知られる(羽咋市寺家町の)気多(けた)大社の大祭である。気多大社の神輿が、七尾の能登生国玉比古神社(通称:気多本宮)に赴いて還御する神事である。
 江戸時代以前は、二月の「午」の日に出発し、「申」の日に気多本宮に至り、「酉」の日に還る慣わしだったそうだ。
2010年3月22日 平国祭 御幸 in 一本杉通り
 (↑写真はクリックすると4倍の大きさで見ることが出来ます)

 現在は3月18日に出発し、21日に気多本宮に至り、23日に気多大社に還る5泊6日の行程となっている。基本的には、行きは俗に東往来筋と呼ばれる邑知潟地溝帯を東寄りに走る街道筋(旧国道159号線)を通って七尾市域に入り、還りは俗に西往来と呼ばれる邑知潟地溝帯を西よりに走る街道筋(県道2号線)を通って気多大社に戻る順路をとっている。
2010年3月22日 平国祭 御幸 in 一本杉通り
 (↑写真はクリックすると、もう少し大きく見ることができます)

 行きは「おいで祭り」と呼称され、22日の還りからは「おかえり祭り」と呼称が変る。
 ある本によると、もともとの祭りの主旨は本来祈念祭行事であったが、故事による邑知潟の大蛇を退治したなどの神話が強調され、「平国祭(くにむけのまつり)」と呼称されたという。明治期になって、さらに「平国祭(へいこくさい)」と改称された。

 日程やコース、日数は、明治以降も何度も変ったようだ。和倉や田鶴浜を通ったこともあるそうだ。また現在のような5泊6日でなく、3泊4日の時代も結構長く続いたようだ。

 このような装束を着て、神輿の還御を行う祭り・神事は、昔は全国各地にあったようだ。現在このような巡幸が行われているのは、それだけでも全国的に非常に珍しいのだが、巡行する距離などの規模としては、明治以前からでも全国的相当珍しい神事だったようだ。

 ここで何度か紹介した「ちょんこ山祭り」も、もともとはこのような御幸の最後列に供奉した山車に過ぎなかった。享保2年(1717)の森田盛昌の『能州記行』を見ると、まるで平国祭の記述ではないかと思うような記録が残っている。
 
 写真について理想を言うなら、このような休憩中のものでなく、移動中の行列の写真が撮れればよかった。また御幸には神馬もいたのだが、この写真の中には写っていなかった。実は、撮影の途中でカメラの調子がおかしくなり、分かっていたのだが撮れなかったのだ。
 カメラの調子がよくなってから追いかけて撮る手もあったが、私もそんなに暇でない。
 あしからず!
    

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