書家&画家&文筆家・横川巴人
2009 / 04 / 21 ( Tue )
横川巴人(1886~1969)
一本杉町で生誕。第二次大戦末期帰郷後も、一本杉町に住む。

明治19年 1月8日七尾の医家・横川家で誕生。

横川巴人が「夢」の字を書いているところ 名前の呼び方だが「巴人は正式には「はじん」のようだが、地元ではどういう訳かしらないが「ぱーじん」さんという呼び方で親しまれている。

 まず横川家のことから紹介しておこう。横川家は、七尾の旧家である。巴人は、寛政年間に漢学塾保合堂を開いた横川長洲より数えて6代目にあたる。
 長洲は、壮年京都に出て皆川棋園に経書を学び、小石元俊に蘭法医術を学び、七尾に帰ってきて医家を開き、傍ら郷党の師弟に経学を教えた。その門からは、飯田(珠洲市)の葛原秀藤、七尾の安田竹荘などの逸材が出た。
 長洲の息子、有孚も蘭方を学ぶ傍ら、国学に専念し本居太平の門人・橘尚平らの人々を七尾に招き、古学の講義を聞くなど、七尾における学統を伝えた。 
 有孚の子・文蔵は安田元蔵に漢籍を習い、京都の小石塾において小石流の西洋医術を学んだ。俊秀の誉れが高かったが、31歳で夭折した。
 巴人の厳父仲蔵は、文蔵没後横川家に養子として迎えられた。春水の雅号を持ち、浪花大庵六世を許され、明治最後の純漢方医として名高かった。
 無角(謹一郎)は、文蔵の長男として生まれたが、早くより上京し、後に浅草に開業医として知られた。三痴庵、竹庵などの号もあり、名僧山田寒山師と親交が深く、中里介山のあの名著「大菩薩峠」に道庵先生として描かれている。巴人の達磨の絵

 なお中里介山「高野の義人」(明治43年頃)という小説がありますが、主人公は横川左内という義に勇む者で、男の意気を骨子に描いたものですが、この主人公のモデルは巴人です。介山とは、一つ違い(介山が一つ歳が上)で友人でした。この「高野の義人」は脚本化され、本郷座で上演されて、当時非常に好評を拍したようです。

明治38年
 石川県立第三中学校(現県立七尾高等学校)三年を終えた巴人は、医学を学ぶために上京、無角のもとに身を寄せ、東京医学専門学校に入学したが、幾ばくもなく学業を放棄。その間に、田岡嶺雲、幸徳秋水、木下尚江らの影響を強く受け、前田黙鳳を知るに及びその門下に入った。

明治42年
 前田黙鳳が「健筆会」を組織するに当たって、その幹事に就任。第一回健筆会を上野日本美術協会に開催した。以来10年間、前田黙鳳の後継者として「健筆会」の運営に当たり中村不折、河東碧梧桐などと共に、明治・大正期の六朝風書道の普及に大きな役割を演じた。 上京後も、しばしば七尾に帰り、郷土の知友と図って「日本海新聞」、「エゴ」などの地方文芸文化誌の出版について助言援助するなど戦前の七尾文化層の指導的役割を果たしてきた。

明治20年6月  
 戦争末期の東京を逃れ、成子夫人と共に帰郷し、自適の生活の中に書画の道に精進し、独自の世界を高めていくと共に、戦後の七尾における文化運動に対して適切な助言指導を寄せていた。
 七尾帰郷後は、一本杉町の現在・松本呉服店駐車場(のと共栄信用金庫のATM出張所の向井側)に住んでいた。

昭和23、4年頃より
 「能登教壇」、雑誌「能登往来」などに美術文化評論、随筆などを書き格調高い文章は各界に好評を拍す。

昭和39年
   同じ七尾出身の直木賞作家・杉森久英氏は、巴人の気骨ある東洋的文人の風格と人生を描いた「能登の人」を雑誌「大法輪」に1月より5回にわたって連載した。 巴人の「夢」の字の書

昭和39年3月 成子夫人歿。
 同年11月 七尾市文化賞を受賞。
 同年12月 七尾市済美館において「横川巴人個展」を開催。
 昭和42年 県教育界の先達、中村禎雄氏(巴人の甥)の次男敬雄氏を養子として迎えた。敬雄氏は 北國新聞社論説委員として活躍した。
昭和44年3月25日 急性肝炎のため七尾市能登総合病院に入院。
同年5月11日 午前6時40分、永眠。享年83歳。

(参 考)
 ●この年譜は、横川巴人著作集「夢」の中の「横川巴人年譜」及び「月刊能登 ’69・8」(横川巴人追悼号)の年譜を、比較し、ほぼ転記させてもらいました。
 ●達磨の絵と「夢」の書は、私・一本杉蔵が所蔵するものを使わせてもらった。

 


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