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日本を代表する哲学者・西田幾多郎(1870~1945)
2012 / 06 / 25 ( Mon )
日本を代表する哲学者・西田幾多郎(1870~1945)

(ここでの記事は七尾時代中心の内容にする。西田幾多郎の全般的な略歴を知りたい方は、Yahoo百科事典の西田幾多郎の記事をココにリンクしておくので、そちらを見て欲しい

 哲学者の西田幾多郎が、石川県出身者であることは、石川県人ならご存知の方も多かろう。
 それが七尾に一年も居たとなると知らない人も多い。幾多郎が京都大学退官の際、自分の人生を振り返って述べた次の言葉は有名だ。

  「私の生涯は極めて簡単なものであった。その前半は黒板を前にして坐した、その後半は黒板を後にして立った。黒板に向かって一回転をなしたと云へば、それで私の伝記は尽きるのである」

 その「黒板を後ろにして立つ」教職者としてのスタートが、実は石川県尋常中学七尾分校であった。幾太郎は、明治27年7月東大文科大学選科生を卒業し、すぐ金沢へ帰り、親戚の家で(後に妻となる寿美の実家で)しばらく寄寓し職を探すが、なかなか就職できなかった。

 明治28年4月、漸く、石川県尋常中学七尾分校に、分校主任教師として月給45円で赴任。倫理・英語・歴史の3教科を担当した。

 校舎は、七尾高等小学校を仮校舎として開校した(生徒は1,2年合わせて88名)。場所は、現在のパトリアの辺り(昔、七尾市立小丸山小学校御祓教場、七尾市立御祓小学校のあった場所)。しかし開校間も無く、明治28年4月29日の七尾の大火で類焼。

 この頃、幾多郎は生来真面目だったので、教育方法に悩み(四校時代の同級生)山本晁水(山本良吉)宛の手紙に次のように書いている。
 「小生は唯童子を対手に、いかにして教育すればよきと、日夜苦心いたし居り候。最も方法に困り候は、倫理に御座候。大兄何かよき考も御座なく候か。どうも始めの中は理論を云ふても無益と存じ候。何かよき参考の書もなきや。(※1)松陰や(※2)東湖いかにして天下の名士を陶冶(とうや)せしや。新島(同志社を創設した教育者・新島襄)先生の伝は有益なる書にあらずや。人物陶冶の法は今の自称教育者の説よりは古人の塾則などを見る方よろしからんや」
※1:幕末の長州藩志士・吉田松陰
※2:幕末水戸藩の儒学者・藤田東湖。水戸斉昭を補佐した事で有名

 倫理学の教師として幾多郎はこうも書いている。
 「小生倫理の古来の行儀主義をとらず。唯(ただ)、敢進有為(あえてゆういにすすむ)の人を養ふにあり、mooto(モットー)は丈夫玉砕恥瓦全にあり。ちと過激なるか」

 校舎類焼後、中学の授業は小島町の竜門寺、徳翁寺、長齢寺を借りて行うこととなった。

 災難続きの幾多郎であったが、いいこともあった。それまで七尾で同居していた得田家の従妹、得田寿美(ことみ)と結婚した。寿美は幾太郎の母・寅三の妹貞の長女である。小さい時から仲が良かった。
 幾多郎が寿美と新婚生活を始めたのは、七尾湊町の大乗寺の庫裏の一室であったという。

 ただし新婚生活は、決して楽しいものではなかったようだ。二人の仲は良かったが、家と家との葛藤などあってその頃二人は、暗い苦しい生活を送っていたようだ。

 が逆境を乗り超えんとする幾多郎は、不屈の闘志を燃やし、この年の5月から、幾多郎は「グリーン氏倫理哲学の大意」を『教育時論』に連載する。これは前年、就職に失敗してから暗い状態の中で、取り組んだトマス・ヒル・グリーン(1836-1883:イギリスの新ヘーゲル主義を代表する哲学者)の研究を開始し、取り組んでいたものをまとめた成果であった。

 この頃の大志を表明した手紙が残っている(これまた前掲の手紙同様山本晁水宛の手紙)。
「有為の青年一地方に局促すべからず。余も昨年来は唯悒々(ただおうおう)として月日を送迎せしが、今夏大兄と話をして、大いに活気を得たり。人間五十活潑々地、行かんと欲する処にゆき、進まんと欲する処に進むべし。余が昨年来の引き込み思案は大に誤り居れり。蟄居して学問し(※3)三宅程になりたりとて、一つの(※4)Geizと同じく世に益なし。己の得たる丈は世に顕はし、世を進めざるべからず。是吾人の義務なり。
 余は自揣(みずからはか)らず能登中学に終わるより一層大なることに奉ぜんと思ふ。始より小事に安んぜば一生成す所知るべきのみ。余は今大兄と話し居たる如く、明年は東都に出て大に独逸文学及び哲学を勉強し、今までの仙人主義をすてて務(つとめ)て世界の舞台に出んと思ふ。余は之を楽として勇気勃々勉強いたし居り候。」
 「いかにしても東都に出で度(たく)存じ前に申上候如(もうしあげそうろうごと)く明年は再び書生をなさんとも考へ候が、其後(そのご)又熟ら考へ候に小生の如き係累多き身にして全く書生をなすこと誠に困難にて…この頃はいかがせんと日夜迷ひ居り候。…兼(かね)てこの世は唯にすぐさじと思ひ日夜苦慮罷(まか)りあり…」
※3:三宅雪嶺のこと。石川県出身の哲学者、文明評論家。著書に『真善美日本人』などがある。
※4:吝嗇(りんしょく)のこと。

 七尾での一年の勤めの後、明治29年4月、幾太郎は七尾の分校主任を辞めて、四高講師として金沢へ戻る。
 幾多郎が四高に戻ったのは、1つには学校が類焼して、再建が難しかったのもあるが、どうやら石川県の政争もからんでいたようだ。政争に巻き込まれた石川県尋常中学七尾分校は、その半年後には閉鎖されたそうだ。

 最後に、もう一つ七尾時代の青年幾多郎のエピソード。
 彼は、海が近い七尾のこと、毎日のように海辺へ出かけて白い波がしらに見入っていたという。下宿先の娘がある時、何を考えているのかを聞いたところ、「世界のことを考えている。世界というものは不思議なものだ」と答えたということだ。
 じっと海を見つめながら、僻遠の地・七尾で、大志も忘れず孤高の精神で哲学への研究を深めていった幾多郎。
 七尾の青少年にも、このような大志を抱いて、頑張って欲しいなあと思う。

(参考図書)
 『祖父 西田幾太郎』(上田久・南窓社)
 『西田幾多郎 人と思想』(下村寅太郎・東海大学出版会)他

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島田清次郎(1899―1930)
2012 / 06 / 24 ( Sun )
作家・島田清次郎(1899―1930)

 大正時代、一時期異常な人気のあった小説家である。石川県美川町生まれ。

 略歴を紹介する。
 彼が生まれて1年後、父が死亡し生家は没落する。祖父が金沢で遊郭を営んでいたので、金沢へ移住し祖父の世話になる。子供の頃から旺盛な読書欲を発揮し始める。
 小中学校は、祖父の家から通っていたが、1912年(大正元年)祖父が米相場で大損失を出し遊郭が経営不振に陥る。清次郎は、それ以上中学(旧制金沢二中)に通えなくなる。

 一時、東京の実業家の庇護を得て、東京の明治学院に通う。が彼のわがままな性格からその実業家と衝突し、叔父の元に身を寄せた。叔父の家から通った金沢商業学校も、卒業間近の時期に校内弁論大会で校長弾劾演説を行い停学処分を受け中退する。

 その後の放浪生活のなかから小説『地を超ゆる』(1917年(大正6年))を執筆、歌人で評論家の暁烏敏(あけがらすはや)の紹介で『中外日報』に公表される。

 1918年(大正7年)夏、世話する者がいて、彼は月5円で七尾にあった鹿島郡役所の雇用に採用され七尾に一時期住む。住んだ家は、木町にあった彼と同じ島田姓の家だったという。

 七尾での島田清次郎については、(七尾市出身の直木賞作家の)杉森久英が『天才と狂人の間で』の中で、約3頁にわたり描いている。
(興味のある方は、そちらを参考に読んでほしい)


 その七尾での吏員をしていた頃、清次郎は『中外日報』の社主・真渓涙骨から月給50円出すから自社の記者にならないかと誘いを受ける。真渓は、自紙に時々寄稿される『地を超ゆる』を読んで清次郎の才能にすっかり感服したのだった。

 清次郎は、鹿島郡役所を勤めはじめてまだ数か月ばかりだったが、10倍の給料に否もなく、役所を辞めて京都へ出る。時に19歳。

 がここも彼の傲岸な態度が嫌われ、生田長江(いくたちょうこう)への紹介状を携え、上京する。1918年(大正7年)『地上』第一部を脱稿、翌年生田長江の推挙で新潮社から刊行された。

 内容は天才肌の少年(主人公)が社会に反抗したり恋愛する精神遍歴の姿を描いたもので、理想主義的な青年の共感を得て、大ベストセラーとなる。一時は「島清」という略称でも呼ばれるほど有名になった。

 しかし続刊された第二部、第三部では概念的になり、未完に終わる。

 1922年(大正11年)欧米を外遊、米国のクーリッジ大統領、英国ではH.G.ウェルズとも面会。
欧州旅行後は、文壇の中で傲岸不遜な態度に出て他の作家に嫌われたり、裁判沙汰になるような女性問題なども起こし、人気は急落する。

 精神的にも安定性を欠き、奇矯な言動が目だつようになる。
 ある日、巣鴨地蔵尊の近くで警察署員に職務筆門された時、暴言などをはいて巣鴨署に拘引となる。精神鑑定の結果、統合失調症と鑑定され、巣鴨の精神病院に収容される。
 そのまま不遇のうちに精神科病院で没した(1930年4月29日(昭和5年))。
 享年31歳であった。

 彼の著作は、『地上』、『地を超ゆる』の他に短編集『大望』(1920)、評論集『勝利を前にして』(1922)がある。

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