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俳人・島田渓水(しまだけいすい) (1902~43)
2012 / 06 / 22 ( Fri )
俳人・島田渓水(しまだけいすい) (1902~43)

 島田渓水は、本名を島田与左久(しまだよさく)といい、明治35(1902)年、七尾市木町に生まれる。
 高浜虚子を師事しホトトギス派に属して活動するが、41歳で亡くなる。
 もともとは蕉風の古風な俳句を学んでいたそうだが、途中からある経緯によってホトトギス派に変更した。
 その辺の経緯は、親友の勝本柏宇の本に詳しく書かれており、勝本柏宇の記事で紹介しておいた。興味のある人は、そちらを読んでほしい。 

 ところで和倉温泉白崎公園に行くと、彼の句碑がある。和倉温泉観光協会が昭和61年4月に建てたものだが、粋にも石材は、師の高浜虚子、また虚子の師である正岡子規故郷、愛媛県の伊予石である。
 
<碑 文>
 (表)丸山の 花もをわりの 湯治かな  渓水
 
 (裏)高浜虚子選 日本百景俳句最優秀作
   島田渓水(七尾市出身)昭和六年大阪毎日新聞・東京日々新聞社募集の新名勝選百三十三景の一つ和倉温泉を誦んで優秀(金牌賞)を受賞した句である。
 昭和六十一年三月吉日
       和倉温泉観光協会  建立

 この句碑は、昭和61年4月3日に建立され、除幕式は六日の午後10時から行われた。
 式後、能登ホトトギス探勝会と金沢あらうみ会合同句会が開かれたそうだ。

 なお渓水の師匠・高浜虚子の句碑(下記)も、この渓水の石碑がある近くの和倉温泉・弁天崎公園にある。
<碑 文>
   家持の 妻恋舟か 春の海      虚子

 虚子は、昭和24年4月、能登各地を(息子・年尾も同行)行脚し、その際、七尾俳壇は同月26日に一行を和倉温泉に迎え盛大な記念句会を開催した。非常に盛大な句会だったらしい。
 虚子は、和倉温泉の他、七尾港をバスで訪れたり、小丸山公園にもステッキをついて登ったそうだ。

 七尾では昭和初期頃からホトトギス派に移る俳人が多かったが、虚子が七尾に来たことで拍車がかかったのか、昭和24年には、七尾の俳人の9割以上がホトトギス派に所属するまでに至る。

 昭和51年5月青柏祭の日には、能登ホトトギス探勝句会三百回俳句大会に、ホトトギス二代目主宰(虚子の子・高浜年尾)の名代として、稲畑汀子(高浜年尾の娘)が、七尾に来ている。

 年尾の孫(虚子のひ孫)に当たる稲畑廣太郎も、その後、七尾を訪れたのだろうか。小丸山公園・第一公園には、高浜年尾・稲畑汀子・稲畑廣太郎の親子孫の3代句碑もある。


 話を島田渓水に戻すが、虚子が七尾を訪れた頃(昭和24年)は既に渓水は亡くなって5年程度経っている。
 七尾にホトトギス派の句会を、勝本柏宇らとともに作り、ホトトギス派の俳句が根付く起源を作った功労は大きなものがあろう。

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彫刻家・高田博厚(たかたひろあつ) (1900~87)
2012 / 06 / 22 ( Fri )
 今、御祓公民館の地域案内で、文化人の紹介コーナーを作っている。ここで私(宮下)が作成した記事なども利用(一部修正して転載)させてもらった。
 新たに幾つか御祓地区ゆかりの文化人の記事を書いている(書いたので)、ここでも採りあげて行きたい。
 また一本杉通りの公式サイトでも、それらの記事を転載し役立てたいと考えている。

彫刻家・高田博厚(たかたひろあつ)(1900~87) 

<生い立ち>
高田博厚(たかたひろあつ)は、明治33年(1900年)8月19日、矢田郷村(現七尾市岩屋町)に生まれた。晩年、七尾の知人の中に宛てた手紙の中で高田は、七尾湾の夕空に浮かぶ雲が大変美しかったと回想しているそうだ。
高田が2歳の時、父親が弁護士開業のために福井市に移り住む。
福井市順化尋常小学校、旧制福井中学校卒業後、18歳で上京するまでの青春時代を福井で過ごした。中学校1年とき、東京美術学校に在学中の彫刻家・雨田光平氏の作品によって、初めて彫刻に触れ、文学、哲学、美術書に熱中した。
七尾市生まれの彫刻家・高田博厚
 中学卒業と同時に、上京し、東京美術学校を受験するが失敗。まもなく長年の友人(画家)に彫刻家で詩人の高村光太郎を紹介され、その交流などを通して独学で彫刻を勉強した。またその頃、当時白樺派に送られたロダンの彫刻(ロダン夫人)に強く打たれた。
「麗子像」で有名な岸田劉生とも知り合う。
友人を作ることが上手かったのだろうか、他にも岩田豊雄、中川一政、尾崎喜八、高橋元吉、片山敏彦、岩波茂雄らと次々と知り合い、また後には芸術家の他にも、武者小路実篤、草野心平、谷川徹三、中原中也、小林秀雄、大岡昇平、中野重治、梅原龍三郎らとも知己を得る。

その後、東京外国語学校伊語科に入学(21歳)するが、2年で中退。イタリアの原書をミラノの本屋から直接購入し、その後、コンディヴィ「ミケランジェロ伝」を訳註するまでに語学力も上達する。

<フランスへ>  雑誌、「白樺」で西洋美術を知り、高村光太郎と親交を結ぶ頃には高田は生涯彫刻を志す事を決断する。
昭和6年(1931)春、31歳の時、かねてより憧れだったフランスへ単身渡り、ロダンやマイヨールら金台彫刻の巨匠に学ぶ。
滞在先のパリでは文豪ロマン・ロランをはじめ、哲学者アラン、詩人ジャン・コクトーなど当時のヨーロッパの代表的芸術家ら多数の人々と交誼を持ち、数多くの事を学びましだ。
またガンジーともこの時親交を深めたようです。日本人で、一番長時間にわたってガンジーと語った事があるのは、おそらく高田博厚です。

 高田博圧は、知己を得た彼ら友人の肖像制作に励みました。これが、ヒューマニズムの思想潮流とあいまって、戦後、高田を一躍有名にすることとなったようだ。
彫刻家として、日仏友好の懸け橋として活躍した高田のフランスでの滞在は昭和32年(1957)、57歳での帰国まで20年以上に及んだ。
終戦直後は、彼はドイツで難民になるなど、生死の境をさまよう苦難を経たようです。

<晩年の高田>
 帰国後、高田は、東京にアトリエを構え、その活動は、制作・執筆・講演と幅広きにわたり、寸分の時間を惜しむ程の活躍ぶりでした。彼の多くの著述のうちフランスの精神文化を伝えるこれらの文筆は、多くの高田の愛好家を生み、今なお変わらぬ人気を保っている。新制作協会会員。日本美術家連盟委員。日本ペンクラブ理事。東京芸術大学講師などを務め、九州産業大学芸術学部の創設に尽力した。その後、老境を迎え、制作に専念するために鎌倉に転居、「自分はまだまだ小僧だ」と語り、常に探求心を怠らなかった。昭和62年(1987)、高田は86歳で静かにその生涯を終えた。
 
主な著 書・訳書など
書  名著  者 訳  者 発行年出版社
ルオー高田博厚・森有正著1990第三文明社
ロマン・ロラン全集 22 芸術研究 Ⅲロラン,R.(ロマン)著蛯原徳夫・高田博厚1981みすず書房
ミケランジェロ伝コンデヴィ,A.著高田博厚1978岩崎美術社
素描ロダン・ブールデル・マイヨール高田博厚 編著岩崎美術社
ロマン・ロランⅠロラン,R.(ロマン)著高田博厚筑摩書房
ロマン・ロランⅡロラン,R.(ロマン)著高田博厚筑摩書房
ミケランジェロの生涯ロラン,R.(ロマン)著高田博厚岩波書店
私の音楽ノート高田博厚音楽之友社
ロダンの言葉抄ロダン (岩波文庫)高田博厚・菊池一雄/編高村孝太郎訳岩波書店

(参  考)
『図説 七尾の歴史と文化』(石川県七尾市)



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七尾市馬出町出身の作家・藤澤清造
2010 / 02 / 22 ( Mon )
 七尾市馬出町出身の作家・藤澤清造 (1889~1932)

 先月の末、藤澤清造の「清造忌」が七尾市小島町・浄土宗西光寺で営まれた事が新聞に載っていた。
 一本杉通りに出身の人物ではないが、一本杉町から近いので採り上げることにした。
 生れたのは、明治22年(1889)で鹿島郡藤橋村。現在の七尾市馬出(まだし)町である。

『根津権現裏』(藤澤清造) 18歳の頃文筆家を志し、姉を頼って上京。印刷屋、製本所、新聞配達、製綿所、弁護士書生などを様々な職業を経験したが、間もなく俳優を志望するも叶わず悶々としていた。

 やがて、同郷(馬出町)の作家志望の安野助多郎によって徳田秋声や室生犀星と知り合う。
 徳田秋声の紹介で三島霜川が編集主任をしていた演芸画報社に入社、訪問記者となり、10年間の演劇記者時代を送った。そして仕事をしながら、小山内薫に私淑し劇評も書いた。
 画報社を退社後は、小山内の紹介で松竹キネマやプラトン社に勤務するが長続きしなかった。

 大正11年(1922)大阪に移って書いた、友人・安野助太郎の悲惨な死をテーマとした長編小説「根津権現裏」の出版によって文壇に登場。

 ところでその安野だが、彼は金沢生まれで、若い頃は兄と一緒に七尾へ移住し兄は馬出町で理髪業をやり、弟は裁判所の給仕などをやっていた。藤沢とはその時知り合ったようだ。安野は上京後、弁護士の事務員書生などやっていた。

 この安野助太郎と藤沢清造と、それに室生犀星の3人は親しく東京でもよく交わったという。安野が亡くなったのは斉藤茂吉の脳病院の便所で縊死を遂げた変死だった。

 この事件を題材にして、藤沢は、「根津権現裏」を書いたのだが、その後は『新潮』『文芸春秋』『文芸往来』などに小説戯曲を発表。彼の作品は、もっぱら人間の醜悪な面、悲惨な面を描き続けた。晩年になるにつれて無政府主義的傾向が強くなっていったという。

 上記のように劇評や戯曲により一時は「演劇界」で活躍したが、寡作のために生活に困窮。
貧乏にも関わらず頻繁に悪所通いなど生活は乱れ、昭和6年(1931)5月の『文芸春秋』で「此処にも皮肉がある」を最後に文筆を絶った。

 悪疾の精神障害(どうも悪所通いが原因らしい)をきたし、何度も失踪を繰り返したという。翌年の昭和7年1月29日、行き倒れとなって東京芝公園で凍死した。享年42歳。
 発見当初は手がかりがなく、行路病死人として扱われ火葬されたが、靴に打った本郷警察署の焼印が放送局の久保田万太郎氏の耳に入り、藤沢であると確認された。

 小説家としては、『根津権現裏』が唯一の単行本であるが、大正期の人生派文学の作家と位置づけられる。
 横川巴人(七尾市一本杉町出身)は、この作品に大しても結構酷評で「内容もひどく藤沢の性癖から出た文脈で、一口に言えば自然派風の私小説というものだから、広く読まれる通俗性がなかったともいえる。」などと書いている。

 藤沢清造は、一般には有名ではないが、文壇で「ダラ言葉」を流行らせたり、文壇の著名人を誰彼問わず訪ね周り、当時文壇では一種名物男であったという。
 交友した者の中には、郷土を同じくする室生犀星、徳田秋声、尾山篤二郎(金沢出身の歌人・国学者)、横川巴人の他に、北原白秋、今東光、久保田万太郎など著名な作家なども沢山いたようだ。

 だがその一生は極貧の人生でもあった。彼の極貧の生活の有り様は、横川巴人の『夢』などにも書かれている。

 昭和28年(1953)7月最初の追悼法要が西光寺で営まれた。墓標は質素な木でできたもので、尾山篤二郎が書き、吉田秀鳳(七尾市出身の彫刻家)が刻って有志の手で行われたそうだ。亡くなってから21年経っての法要であった。

 2006年、清造研究家で作家の西村賢太氏の自伝的小説『どうで死ぬ身の一踊り』が、第134回芥川賞の候補作に選ばれるが惜しくも受賞を逃した。また西村氏は、藤澤清造の全集の編集も個人的に進めており、その激烈な私小説『どうで・・・』の中で、主人公に繰り返し強い共感を語らせてきた。
 西村氏のお陰で久々に「知られざる作家」藤沢清造の生涯に注目が集まった感がある。
 今年も行われた清造忌は、昭和28年に営まれた追悼法要を、その西村氏が平成13年(2001)に復活させた法要で、以後毎年西光寺で行われているようだ。

 《参考図書》
 横川巴人『夢』(横川巴人会 昭和44年11月発行)
 『石川県大百科事典』(北國出版社)  他ネット検索など
 

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