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七尾の4つの漢学塾(うち2つは一本杉通り)
2010 / 02 / 23 ( Tue )
 七尾の4つの漢学塾(うち2つは一本杉通り)

 江戸時代、一国一城令の後、小丸山城は廃城となった。七尾(所口)は城下町でなくなったために武士の少ない町となった。町奉行所関係の武士が足軽まで含めても(時期により多少増減しているが)十数名ほどだったという。それでも漢学塾が幾度か出来たようだ。
 七尾は結構向学な町人が居たようだから、武士だけでなく富裕な町人も習ったのかもしれぬ。

 横川巴人の『夢』には、江戸から明治にかけての漢学塾4つをあげている。
 江戸時代の古い漢学塾から言うと、岩城穆斉(いわきぼくさい:天明7年(1787)歿。享年42歳)の臻学舎(しんがくしゃ)、次いで横川長洲(文政11年(1825)歿。享年65歳)の保合堂

 この2人は、何れも江戸後期の著名な儒者・皆川淇園(みながわきえん)門下である。そしてともに家塾は、一本杉通りにあった。 岩城穆斉の屋敷の位置は、御祓川仙対橋詰の中山薬局の辺り。ただし当時はこの辺に左岸川岸の道路はなく、今の中山薬局の横の川岸の道路を含めた辺りまで屋敷地だった。
 また横川長洲の保合堂は、はっきりした資料は無いが、巴人の家と同じ現在の松本呉服店駐車場(二穴理容室の北向側の角の敷地)と思われる。

 2人の説明をもうちょっと付け加える。

 岩城穆斉は、煎海鼠の御用商人として七尾の豪商となった廻船業の塩屋清五郎家の三代目である。この岩城家に繋がる一族は、数多くの文化人を輩出した。岩城穆斉自身も、「所口の賢人」と称えられた有名な人物である。

 塩屋清五郎家とその一族については、 「七尾古写真アーカイブ」のサイトで詳しく説明されています。
 この一族については佐々波與佐次郎氏が『能登風土記』の中で詳しく書いており、私もその本を持っていますが、このサイトでは最新の成果も盛り込まれています。
 例えば元禄13年発刊の『欅炭(くぬぎずみ)』の俳書の著者・大野長久(松永貞徳の貞門派の俳人)と三代目塩屋五郎兵衛が同一人物であるなど事なども載っており、七尾の歴史を知るには必見のサイトです。

 話が逸れましたが、次ぎに横川長洲について述べると、横川巴人の先祖で、壮年時代に京都に出て医術を小石元俊(関西で蘭法を用いた最初の人物)に就いて学び、また経学の方は皆川淇園に学んだという。巴人の言い方だと「七尾に帰ると分家として一家を構え、医業と同時に家塾保合堂を開き、子弟に経書を教授した。」

 3番目は、(現・七尾市多根町出身)の安田元蔵(竹荘と号す)(医師。明治4年(1871)歿で、享年65歳)で、相生町に家塾を開いている。安田竹荘は横川長洲の晩年の塾生である。13歳から17歳まで学んだとあり、寛政8年から享和3年まで保合堂で学んでいた。

 そして最後の4番目が、家塾紹成社を開いた中村豫(立軒と号す)(明治26年(1873)、享年71歳)である。彼は明治4年(1871)に金沢から七尾にやってきて、翌明治5年にその家塾を開き、七尾を中心に能登の子弟に経史を講じたという。
 家塾紹成社の場所は、現在小丸山公園の駐車場になっている以前テニスコートだった場所だ。
 巴人氏の話では、戦前まで家塾の建物はあったが、終戦の十日前強制取壊しが行われ、立派だった庭園は、国体のテニスコートに借用するため壊されたという。
 中村立軒の門人には、第一期衆議院議員の神野良、七尾市中狭町出身の林太一郎陸軍中将・第7師団長、七尾市中島町出身の三井清一郎陸軍主計総監・後に貴族院議員などがいる。

 ところで『図説 七尾の歴史と文化』の「七尾の学校事始め」(P160,161)で、明治5年1月の「町役員交名等書上申書」の中に臻学所掛りとして任命された職員や氏名(教師は畠山忠太郎、副教師は安田元吉(安田元蔵の長男) など)が載っていることから、七尾に明治4年に(臻学舎ではなく) 臻学所と名付けられた公的教育機関が設けられていた事がわかり、注目すべきことと述べている。そしてこの臻学所の設立の経緯や教育については史料が無いので不明だということが書かれている。

 ただ在った場所はわかっている。明治5年当時は区会所内の臻学所にあったと言われ、区会所は現在の七尾郵便局の場所にあった。明治5年9月に七尾県は、金沢県と合併し石川県となり、「区学校規則」によって臻学所は七尾町区学校と変更になった。区学校の教師も、臻学所同様、畠山太郎(忠太郎から改名)がなっている。
 この七尾町区学校も、「学生」の発布により、明治6年7月には七尾小学校となり、国の指導を受けていくことになったという。

 私が思うに、この臻学所は臻学舎の後身ではなかろうかと想像する。第一に名前が似すぎている。「臻」という字は、寄り集まるとか、衆の意味がある。よって臻学とは人々が寄り集まって学ぶという意味だろうが、そんなに標準的な言葉でもないようだ。岩城穆斉の塾頭ぐらいをやっていた人物が、穆斉の死後もその志を受継ぎ、後進の指導にあたったとか、あるいは塩屋家の誰かが継投したのかもしれない。そして家塾から少し公的な区会所内の塾に性格を変え名も変えたのではないか。

 ちなみに3番目に挙げた漢学塾の安田元蔵(竹荘)の三男・安田三平は、明治17年(1884)に私立安田英和学校を開いている。彼は明治9年慶応義塾に入学し、9年間勉強してこの学校を開いたそうである。
 安田英和学校では、英語、漢文、数学を教え、その弟子は300人にも及んだという。この学校は十年続き、明治27年(1894)に三平が亡くなると閉校となった。

 この安田家は、教育者を多く輩出したらしい。私が七尾高校にいた時も、この家の血統の安田俊彦先生という英語の先生がいた。英語のほか、ロシア語も堪能で、七尾はロシアの船が沢山入港する港町なので、時々通訳もしているという話も聞いたことがあった。確かに当時の七尾高校の英語の先生の中では私も一番凄いと思った先生であった。

 この様に色々見ていくと、七尾は江戸時代に城下町ではなくなったが、やはり能登の政治・経済だけでなく文化の都として明治頃まで今以上に勢いがあったのが感じられる。

 (参考図書)
 横川巴人『夢』(横川巴人会発行)
 『図説七尾の歴史と文化』(七尾市)
 佐々波與佐次郎『能登風土記』(青山学院大学法学会)
 七尾市教育委員会発行『七尾のれきし』
 ほか

  

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七尾の名工 吉田屋喜兵衛
2010 / 02 / 21 ( Sun )
 七尾の名工 吉田屋喜兵衛

 横川巴人さんの著書『夢』の中に、今回と同じタイトルの一節がある。よって元ネタはそこからである。
 この名工・吉田屋喜兵衛は一本杉町に住んでいた。
 巴人氏もこの名工の話は、当時(昭和29年7月)小丸山公園下に住んでいた一番上の姉から聞いたもので、巴人氏は興味を持ち、色々調べてみようとしたが、思わしい結果は得られなかったようだ。

 巴人の姉の話によると、横川家(現在の二穴理容店向かい側の松本呉服店駐車場のあたり)の向い側、一本杉通りの山側の西よりに、二間口位の店屋で堂宮彫物(神社寺院山門の彫刻をやる人を一口に堂宮彫りといった)をやる吉田屋という家があったそうだ。増屋毛糸店があった辺りだというのだが、以前毛糸店をやっていた八木さんの家の辺りだろうか(知っている人がいたら教えて欲しい)。
気多本宮拝殿
 兄弟でやっている店で、兄弟共に彫物師で「弟の文吉は後に愛宕山(近くの小丸山公園内の愛宕山)下に世帯を持ったが、仕事は兄の所でしていた。色白な中背の男で凝り性な職人気質の嗜(たしな)みもあった。兄の方は吉田屋とのみで名は知らないがその子に虎年生れのトラマというのがいて遊びに宅(巴人の家)へ来た。」

 彫刻関係の家では、七尾では吉田一雋氏に始まる家系が有名だ。子孫からも吉田秀鳳氏、吉田雪山氏、吉田昇氏、吉田隆氏と沢山の彫刻家を生んでいる。しかしそうもその吉田家とは血縁関係にないらしい。

 巴人さんも、その吉田家の親戚かと思い、吉田一雋氏に直接聞いたそうだが、吉田一雋氏は「成程同業だが彫刻のところでは私が初代で家との縁故も全くない、しかし先輩から一本杉に吉田家という堂宮彫りの名人がいたという話は聞いており、どの辺にいたのかと思った。その人の作品は、気多本宮の御拝上の彫刻であるが、若い時から見飽きもせずに見に行ったものだ」という話だった。

 それから以前同じ人の作品と思われる作品が、明願寺が今の七尾商工会議所の所にあった頃、その山門の扉に刻まれていたらしい。内容は※黄石公と張良の故事を刻んだものだったそうだ。明願寺は明治の30年代前半に国分に移転、ただし山門は明治35,6年頃まであったが、売られたそうだ(明治38年の大火で焼失したという説もあるらしい)。それで現在はどこかにまだあるのか、それとももう無いのか不明である。

 気多本宮の棟札では、本宮の拝殿は慶応元年から明治元年の足掛け4年の造営と知られるそうだ。資料が殆ど残っていない吉田屋喜兵衛だが、ただし戸籍だけは思いがけず残っていたらしい。「戸籍で見ると喜兵衛は慶応元年で31才である。・・・・慶応2年正月21日に父死亡に付同年3月10日相続す」と記録にあるそうだ。

 巴人は続けてこう書く。
 「棟札の慶応元年5月5日竜と特筆し作人吉田屋喜兵衛名を出し、右端に明治元年秋と神宮名を記したところに深甚の注意が払われているとみなければならぬ。
 つまり明治元年の棟札で竜の作者は二年前に歿した先代喜兵衛の作であることをことわったものである。してみると吉田屋家職は彫刻師だが、名工喜兵衛は初代かどうだかわからぬ。
 私の姉の話の吉田兄弟の兄は棟札にある麒麟の作者吉田喜三郎(前記31才)で(明治29年北海道小樽で62才で歿)弟の文吉は当時22才で棟札から逸している。
 鳳凰の八幡喜助は弟子だろう。さて名工喜兵衛が歿した年令は戸籍になく妻のトキが文化11年生まれの喜兵衛歿年には52才だから5つ6つ年上か60才かと想像するのだが、本宮の竜は彼の心血を灑(そそ)いだ最後の作品だったのだ。」

 巴人の文章は、想像すれば分かる内容は省略する癖があるので、ちょっと慣れないと読みにくいというか理解しにくい点もある。それでもじっくり読めば大体わかる。
気多本宮拝殿の龍の浮彫りのアップ写真

 この話の中では、先ほど述べた吉田一雋の他、同じく七尾が生んだ名彫刻家といってよい田中太郎氏の二人が、気多本宮の竜の浮き彫りを評して、名人芸だと絶賛している話も記されている。
 その中から吉田一雋の評を少し抜粋すると
 「自分は東京浅草観音の境内の経堂や上野の寛永寺、日光陽明門の竜などの名物を旅でも注意して見たが、堂もキャシャなものが多く神秘壮厳さがなく、本宮の吉田屋さんの竜は名人芸だと思った。」

 現在、彼の他の作品が見当たらぬのは誠に残念と言わねばならない。

黄石公と張良について(Wikipediaの「黄石公」から引用)
 黄石公(こうせきこう,生没年未詳)秦代中国の隠士。張良に兵書を与えたという伝説で名高い。
張良が始皇帝を暗殺しようとして失敗し下邳に身を隠していたある時、一人の老人と出会う。老人は沓を橋の下に落として、袂を歩いていた張良に「拾え」と命じ、張良は怒らずそれに従った。老人は一度は笑って去ったが、後に戻ってきて五日後の朝に再会を約束した。
 五日後、先に来て待っていた老人は、日が昇ってから現れた張良に「目上の者との約束をしておきながら遅れてくるとは何事か」と、また五日後に会う約束をする。張良は次の五日後、日の昇ると同時に約束の場所へ行ったものの、老人は既に来ていて以前と同じことを言う。三度目には日の昇る前に行くと老人は後から来て、「その謙虚さこそが宝である」と言い、張良に「太公望兵書(六韜)」を与え、「この書を読み10年後には王者の軍師となるだろう」と告げる。さらに「13年後にまた逢おう。済北の穀城(山東省東阿県)の下にある黄色い石が私である」とも。黄石公の予言はすべて的中し、張良は、穀城の黄石を得て、これを祀ったという。
 黄石公は太公望と伴に兵法の祖として仰がれ、その名を冠した兵法書の種類は多く、中でも『三略』が有名である。
  

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立命館大学創立者・中川小十郎が一時住んだ町、一本杉町
2010 / 02 / 18 ( Thu )
立命館大学創立者・中川小十郎が一時住んだ町、一本杉町

この中川小十郎氏(1866~1944)が一本杉町にやってきた経緯は次の通りである。

中川小十郎翁 明治10年頃、当時御祓川の長生橋たもとにあった浄土真宗大谷派七尾教務所(現在は小丸山大通りにある能登教務所)に、佐賀県生まれの医師・田上綽という先生が経書や詩文を教えるためにやってきていた。田上氏は、山雪と号し、湖南の号も用いた。草場佩川派の学者で画の楽しみもあり、通な文人肌な人であったらしい。

 教務所では、田上氏を中心に詩会の催しもなされたようだ。横川巴人の父親・横川仲蔵(俳号は春水)も、医師であり文化人でもあった。それで横川仲蔵氏が田上氏に病気手当を頼んだのを契機に詩文などを語り合う仲間となったらしい。

 この田上氏には学僕ともいえる十数歳の少年2人が同行していた。その中の1人が、若き日の中川小十郎氏(当時14歳)だった。仮住まいにしていた所は、一本杉町の船城甚右衛門方で、船城氏は酢・味噌・醤油の醸造を家業としていたらしい。文人タイプの人柄で能登や金沢の旧家と付き合いがあり、書画の売買の世話もしていたという。そんな世話好きな性格から中川氏を預かったのではなかろうか。

 中川氏が七尾にいた期間は、はっきりしないが、この元ネタが書かれている「七尾の地方史」を読むと、そんなに短くもないらしい。1年ほど住んでいたようだ。
 船城甚右衛門の家跡が現在の何処に当たるかは、調査したところ一本杉町3番地とある。旧大田ムセンの建物の位置である(隣はミズカミ洋服店)。現在の建物は鉄筋コンクリートだから、勿論当時の建物とは違う。

 
 昭和10年代のはじめ頃、中川小十郎翁の晩年に、一度横川巴人氏は京都の中川邸を訪問した。その際、中川氏は文箱に入れた師・田上先生の文稿を持って一本杉の横川宅へ度々使いに言ったものだと七尾時代を回想したという。

 また後に中川小十郎氏から横川巴人氏に手紙が送られてきたという。手紙には、
「昔年ノコトドモ追憶感無量ニ存ジ候。当時私等ノ寄寓致セシ家ハ一本杉町ノ船城甚右衛門ト申ス仁ノ家ニ候。小生当時十四歳ノ少年ニ候。今日尚昨日ノ様ニ思ハレ候。貴賢姉殿ニモ宜敷(よろしく)オ伝ヘ下サレ度候(たくそうろう)。本日手許有合ハセノ人形ヲ貴宅宛ニテ差シ出シ申候(もうしそうろう)。貴姉ヘお届ケ下サレ度候。」とある。

 文中の貴姉殿とあるのは、巴人の異父姉の中村多仁という女性で、多仁は横川家から、明治の七尾の漢学者・中村立軒の息子に嫁いだそうだ。七尾教務所の少年ら二人と多仁少女とは隠れん坊などしていた遊び友達だったそうだ。その他にも船城甚右衛門の姪だった「のっぽのおよねさん」と渾名(あだな)された娘も当時の中川氏の遊び仲間だったらしい。
 
 小十郎の晩年になってからも、二人の女性や巴人のもとに、七尾を懐かしむ手紙などを送ってきたそうだ。
 詳しい事を知りたい方は、もし七尾市内の方なら、この記事の下記の元ネタにあたる本(七尾市立中央図書館所蔵)に書いてありますから、そちらを読んでもらいたい。
【参 考】
 「七尾の地方史」第23号(平成元年11月)(「七尾地方史の会」発行)
    中川小十郎と七尾の女性 (横川敬雄)  P34~36 
 

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昭和初期に活躍した七尾出身の詩人・鷹樹英弘
2010 / 02 / 17 ( Wed )
昭和初期に活躍した七尾出身の詩人・鷹樹英弘
 七尾出身の詩人・鷹樹英弘
 一本杉通り出身の人物ではないが、一本杉通りより1本だけ山側の町・亀山町出身ということで、採り上げてみることにした。
 最近、私は地元の「ちょんこ山保存会」の調査部の委員ということで、また「館報みそぎ」(御祓公民館)の「七尾市クイズ」の執筆担当として色々地元に関する古い雑誌や資料などを暇を見て読んでいる。ちょんこ山とは七尾旧市街地の西側・御祓地区を曳山で練り行く地元の春祭りである。
 幾つか前の記事の茶谷霞畝のネタも、実はちょんこ山保存会の調べごとをしていて見つけたものを利用した。

 今回載っていたのは「能登‘69.7」(能登往来社発行・能登第3号)の中のこれまた七尾出身の詩人・文人である相川龍春(相澤道郎というペンネームでも活躍)が鷹樹英弘について記した記事である。相川龍春も同じ早稲田大学出身で鷹樹の後輩に当たり、年齢もよく似て、ともに詩をよく作った同郷の二人は、早稲田大学内でも顔を会わせる事が多く、よく付き合っていたそうだ。そういう関係もあり、鷹樹氏の記事を書いたようだ。

 さて本題。鷹樹英弘だが、本名は高木秀博、明治44年5月11日生まれ。生家跡は、亀山町25番地とあるから現在の真舘米穀物商店と大野木邸の間の家の位置になる。
 県庁努めの延次郎の長男として亀山町に生まれたが、幼い頃、その父親の金沢への転勤に従い彼も金沢へ移ったらしい。
 大正13年3月金沢市立新竪町小学校卒業、同年4月石川県立金沢第一中学校入学、三年の時、次弟とともに遠く朝鮮に旅行したこともあるという。異郷風物は、夙(つと)に文学への芽を蘇生したようだと、相川龍春は書いている。その辺りの事情を本人から聞いていたのかもしれない。

 昭和4年3月同校卒業、厳父に伴われ宮崎、新潟を転々とする。昭和6年4月、早稲田第二高等学院文科へ入学。昭和8年4月早稲田大学文学部英文科に進む。
 そして「早稲田英文学」の編集に従事していたようだ。
 さらに文学にて志を立てんとする気持ちが強く、雑誌「記録」の同人となり、「迎蛆行」「夜明け前」「血」「扉の音」の4篇の詩篇のほかに、小説なども発表したようだ。
 翌昭和9年「早稲田文科」に移り、その年行った台湾旅行を基に「米袋を縫ふ女」「西門市場」「果樹園の葡萄」「亡命の歌」「湖畔の蕃地」を発表した。合わせて9篇が豪華版詩集『蛆』(1935)となって刊行された。「強烈な批評意識が全篇を貫く」本だそうである。1936年、卒業と共に病が革(あらた)り急逝。
 私はまだ見ていないが、相川龍春の『わが心の七尾の詩人』(能登印刷・1983)にも詳しいことが書かれているそうだ。

 「能登‘69.7」(能登往来社発行・能登第3号)にも結構詳しいことが書いてあるので、全文の掲載は骨折りなので、やめておくが、該当ページをスキャナーで読み込み、ここに貼り付けておくから興味のある人は読んでください。
 (クリックすれば別ウィンドウで大きく見れます)
 七尾出身の詩人・鷹樹英弘

  

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一本杉通りゆかりの文化人 茶谷霞畝
2010 / 02 / 04 ( Thu )
 茶谷 霞畝(ちゃたに かほう) 
(1882-1970)


茶谷霞畝寓居跡
 茶谷霞畝、本名は木谷善蔵。霞畝は画人としての号で、他に竜杖という俳人としての号も持ちます。彼は、明治15年鹿島町久江に生まれ、明治30年(七尾市)松本町の素封家・茶谷てる家に婿養子として入り、妻に死別後、東京で日本画家・(※1)荒木十畝の入門。師の一字を許され、霞畝(かほう)と号したそうです。

 霞畝は放浪するかのように住居をあちこち転居させたが、晩年七尾に戻ってきて、この鳥居醤油店の家の奥の建物の場所が霞畝の寓居であったという。
 鳥居家の先代が、七尾のパトロンのような立場にあったことも関係しているようだ。

小丸山公園にある茶谷竜杖の句碑



 小丸山公園第1公園の光徳寺裏から続く長い坂を登りきった右側に自然石に刻みつけられた句碑があります。
 
 草書体なので読みにくいですが、
有る様でなく
  無いようである 水の月
     花本十三世 竜杖
  
と刻字してあります。これは木谷善蔵こと竜杖の句碑です。
 俳句は、「花ノ本」派宗匠で京都の俳人・(※2)上田聴秋宗家(花本十一世)に入門し学びました。
 昭和5年に最高位の柿本宗匠の免許を得て、昭和17年に花本十三世を継承した。
 こちら俳句の方では、竜杖と号した。
 昭和18年に勅願俳句の選者に推薦された。
 昭和32年、七尾市文化賞受賞。

 石川県の俳句は、加賀においては芭蕉が訪れたこともあり全国的に隆盛した蕉風の俳句が親しまれたのに対して、七尾においては江戸期以来明治末期にいたるまで、貞門派(松永貞徳が創始)や談林派(西山宗因が創始)などの(※3)宗匠俳諧の栄えた土地柄であった。これに対して明治末頃から七尾の俳人・三野免歌子の新傾向俳句の活動が始まり、大正末期には(※4)新傾向俳句に走る者もあったが、大勢は龍杖などの旧派宗匠俳句が盛んで、花ノ本派は大いに活動した。

 写真の句碑は、七尾俳壇の重鎮・吉村春潮、勝本柏宇の両氏の奔走で、竜杖の足跡を記念し「句碑建設会」を作り、(七尾市の灘浦方面に流れ下る)熊野川上流から自然石を経て、昭和32年8月建碑された。

 多芸な人物で日本画・俳句の他にも色々物した。
書道は日本三名筆の玉木愛石に師事、尺八は都山流を学び、華道は遠州流の奥義を極めて夢想流の一派を樹立した。
書画・俳諧をもって全国を行脚し、昭和45年に91歳の天寿を全うした。

 【註 記】
(※1)荒木 十畝(あらき‐じっぽ) (1872~1944)
 日本画家。長崎の生まれ。荒木寛畝(かんぽ)に学び、のち養子となる。文展・帝展で活躍した旧派系の代表的画家。代表作「寂光」。
 (※2)上田 聴秋(うえだ ちょうしゅう)(1852~1932)
岐阜県・大垣生れの俳人で京都に居した。八木芹舎門の旧派の大御所俳人で、点取俳諧の宗匠として関西で活躍した。著書に『俳諧鴨東集』があり、『明治俳諧金玉集』の跋も記している。本名は肇、号は不識庵、花の本11世。
 (※3)宗匠俳句 
義太夫節や清元と同じく有名な宗匠から学んで月謝を払うお金持ちの道楽でした。
 (※4) 新傾向俳句 
正岡子規の没後、大須賀乙字(おおすがおつじ)の論文「新俳句界の新傾向」に端を発し、河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)らが明治40年代に流行させた俳句。定型を破り、季題趣味から脱して、生活的、心理描写的なものを追求。のち、自由律俳句へと展開。(『大辞林』より引用)

 【参 考】
 『石川県鹿島町史 資料編(続)下巻』P1153~1154
 『七尾歴史散歩百選 新七尾風土記』P99~P100
 『図説 七尾の歴史と文化』P148
   など
 

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